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月に死す [その他]

関東にも大雪が降る前、年賀状すらさぼっていた私は雪の日の子供たちを絵に描いて、友人・知人に寒中見舞いとして出しました。前回のブログで紹介している絵ですが。そして雪の降った日の思い出を絵本に描こうなどども画策していましたが、あの豪雪のおかげで懲りてしまい、今は別の物語に取り組んでいます。実に変わった内容になるはずですが、わざとやっているのではなく、そうとしか描けないためです。出来上がるか、また出来上がったとしても、現在繋がりのある好意的な方たちが受け入れて出版して下さるかどうかも分かりませんので、お約束は出来ませんが、ただ少しずつ進んでいるようです。

こんな私でも、元気づけてくれる人たちがいて、一緒に何かをやろうとか、本を作りましょうとか、言ってくださいます。私はただ絵や文章を描いてきただけ、いつまでものほほんとしているにもかかわらず、何故なのか、すでに一流の業績を持たれる方たちが気にかけてくださっているのには、まこと恐れ入ります。
しかしそういうお気持ちを頂くたびに、私も一種衝動のように筆を執ります。

そのほかには、夢の中で作品のビジョンを見るとき、それを形にしようという衝動がやはり起こります。今取り組んでいる物語もそうです。ビジョンがあり、話の筋があり、それを表現できるタッチでただ習作を行なっています。本制作は習作を繰り返す中で物語の調整が必要になる筈ですから、そのプロセスを経ながら次第に入って行くのだろうと思っています。いずれにしても、私は意志をもってそうしているのではなく、ただ自然に生まれて来るのに任せています。だからどうなるのか、私もわかりません。

そういう在り方の中で、ビジョンの他に音楽を聞くことがたまにあります。幻聴ということになるのでしょうが、夢の終りに歌声と曲調、曲編成まで出来上がった状態で聞こえてきます。それで2、3年前でしょうか、女性のヴォーカルで聞こえてきた歌の話を昨日、たまたま友人にしましたら、歌が出来上がって聞こえるのはすごいというので、折角だから詩を補って完成させ、編曲も考えておきました。ただ、私は楽譜に落とせないので、メロディーは今のところお伝えできません。近いうちに友人かだれかに歌って聞かせて、譜面を書いておいてもらおうと思っています。演奏はお願い出来る伝手がありませんので実現しないかもしれませんが、ピアノバイオリンやチェロのような弦楽器と、ギター、ベース、ドラムがあればベストだと思います。ちなみに曲調はいわゆる「バラード」に該当するでしょう。

その歌の詩は、次のようなものです。



『月に死す』 作詞・作曲 町 静


月にあっては 月に死す
空にあっては 空に死す
大地にあっては 大地に死す
それが きみの運命

いつも両腕(りょうて)を広げて立とう
風が吹き抜けるように
雨も 嵐も 星降る夜も
時空(とき)が 往き過ぎるままに

月にあっては 月に帰す
空にあっては 空に帰す
大地にあっては 大地に帰す
それが きみの生き方

だから夢よ 振るえないでね
桜舞い散る朝も
人の心も 街のさわぎも
すべて 聞こえぬように

だから夢よ 振るえないでね
光輝く瞬間(とき)も
きみの生命(いのち)が 尽きるその日も
静かに眠るときも

永遠(とわ)に
永遠に
永遠に
(hum…)


「死す」とは一般に歌われないタブーかもしれませんが、私の見た夢がこのように歌っていたので致し方がありません。そしてこの歌の意味は当時はわからなかったのですが、いまになって私に解釈できるものとなりました。この歌はもちろん希望の歌ではなく、絶望の果てになおも生きてゆく人を慰める歌なのです。本当に傷ついた人に、陽気な明るいだけの人がやってきて「元気を出しなよ、さあ踊ろう!」などと言って、その人は元気になるでしょうか? 簡単に言うとそういうことです。

「夢よ振るえないでね」とは、傷つくだけのはかない夢を二度と見ることがありませんように、夢がまたあの振動を始めることがありませんように、という願いを込めています。「なんだ? 現実主義になれということか?」と、ここも非常に誤解を招きやすいと思いますが、「夢」を「希望」または「欲望」と置き換えて見て下さい。希望や欲望を原動力に生きた結果、人は傷ついたり、人を傷つけたりするのではないでしょうか。社会的混乱も、闘争も、全て欲望が招いたものです。従って、絶望を真に知ることこそ安らかで全き道だとこの歌は言います。そしてこれは、現代の音楽シーンで誰も歌わない、そもそものはじめの仏教的な在り方でもあります。

歌なんか作ってないで真面目に絵を描けと言われそうですが、たまたま出来ただけなのでどうぞご勘弁を。

私のことを一応画家のはしくれと見て下さっている方も多いので、このブログにもできるだけ絵のことを載せたいと思いますが、絵画制作というのも私のある一面でしかないのです。これまで私の多くの時間は思索に費やされていました。実は私は学問としてはインド哲学を学んだ者なのです。しかしその知識が何かをもたらしたということはなく、長い長い思索、ぼんやり、そして不意に訪れる瞑想、日常生活のなかで、いつしか釈尊の原始仏教の真髄とされる部分に良く似たところに帰着するようになり、もはやそこから一歩も動けないところにいます。従って本当は私は何者かと言えば、何者でもありません。大袈裟にいうつもりもないのですが、強いて言えば、草や木のようなものです。花が咲けば皆さんにもお見せしましょう。実がなればみなさんにも食べてもらいましょう。その花は絵なんでしょうか、その果実は詩なんでしょうか? 私は知りません。でもそれが必要な人には何らかの示唆を与えるのかもしれません。私はただ咲かせ、実らせ、見守るだけです。

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